「源平藤戸合戦平成記」

 

発行日 2015年(平成27年)1112

著者 山上高人

発行者 田邉淑子

発行所 グリーンライフ

定価 2,500

 

モノクロ、71ページ

源平合戦開始後3年の寿永2年(1183年)7月、平家軍は水島の合戦で源氏の木曽義仲を敗り西国を制し、須磨の浦(現・兵庫県神戸市須磨区内)に都奪回を狙うための前進拠点を築いた。しかし、翌年の寿永3年(1184年)7月、源義経による「ひよどり越えの逆落とし」で有名な「一の谷の合戦」で敗れ、四国の屋島に退いて陣容の立て直しを図った。そして、平行盛を総大将として備前児島(岡山県倉敷市)に進出し、種松山の東北の山裾沿岸に陣を構えて、京都奪回の気勢を示した。これに対し源氏は、源範頼(頼朝の弟)が、藤戸海峡を挟んで対岸の日間山から高坪山に布陣し、その結果勃発したのが藤戸合戦である。この藤戸合戦で平家は敗北し、これを境に、4年の長期に渡った戦局は急速に進展し、翌年2月には屋島が陥落し、3月には長門国の壇の浦の海戦で、平家一族はことごとく海底に没し滅亡した。これから考えて、源平合戦における藤戸合戦の戦略的意義の大きさを改めて見直す必要がある。

〔日間山〕 源氏本陣の日間山から、平家本陣の種松山を見たところ。間の平野部が当時海の藤戸海峡。備前・備中・備後の守護土肥実平と播磨・美作の守護梶原景時の援護のもと軍勢を児島まで進めてきた源範頼も、水軍を伴わない悲しさ、平氏陣営を指呼間にのぞみながら攻撃出来ずにいた。

〔一枚畑〕 今は灌漑で十分な食糧を手に入れることができるが、合戦当時は飢饉ということもあり、兵士が胃袋を満たし戦のための体力維持するのは大変なことだったと思う。佐々木盛綱が海へ乗り出した場所については諸説あり、乗り出し岩から少し北東にあるこの一枚畑だとする説もある。

〔鞭木〕 浮洲岩跡から1.5キロほど西北に、吉岡川が倉敷川に合流する地点の上流南側に鞭木の集落がある。合戦当時このあたりは海で、干潮のときに遠目に菅笠を伏せたような砂洲が出ていた。先陣を切って渡海した盛綱が、途中この砂洲に上がって馬を休めたとき、持っていた鞭をこの洲に突き刺し、そのまま出発したところ、後にこの鞭が芽を出して大木になったので、この地を鞭木と呼ぶようになった。

〔佐々木盛綱銅像〕 天城と藤戸の間を流れる倉敷川に架かる盛綱橋の橋上にある。銅像は馬に乗り藤戸海峡を進軍する盛綱の姿を示している。表情は武将を思わせる荒々しいものではなく、現代の若者風のやさしそうな美男子であり、敵地へ乗り込む緊張感はなく、また浦の男を惨殺した残忍さも感じられない。盛綱は寿永3年(1184年)には木曽義仲を討ち、さらに平家を西国に追討した。同年12月備前児島にやって来て源平藤戸合戦の陣頭指揮をとる。

〔舟津東〕 山裾の田畑が段々になっていて、ここが海岸べりであったことが容易に想像できる。正面の正森山から右手殿山にかけて平家の陣営があり、このあたりに軍船が係留されていたものと思われる。ここも合戦の戦場になったところであり、切り倒された彼岸花が、戦場で討ち死にした兵士を連想させる。

〔西明院〕種松山の山裾に西明院という寺がある。その境内に「先陣庵」が建っており、海を渡って来た盛綱が先陣の馬を乗り上げた所とされる。その境内から源氏の陣地高坪山を見る。合戦の頃は目の前一帯が海(藤戸海峡)であった。遠方のビルの建つ高坪山から、佐々木盛綱が馬に乗って、ここまで約2キロの海の中を歩いて来た。当時の平家の動揺は相当なものであったとされる。

〔篝(かがり)地蔵〕 舟津バス停留所から、高速道路瀬戸中央道の高架橋に沿って南東600mほどのところに奥の前という集落があり、そこから100mほど東方の小高い丘に篝(かがり)地蔵がある。先陣庵から南東の丘の上にあり、平家の本陣があった所といわれる。かがりをたいていた所であり、後世跡地に地蔵尊を安置し辻堂を建てたため、かがり地蔵と呼ばれるようになったとされる。

〔清滝七ツ池〕 腸川を上りかがり地蔵を南に遡ったあたりが清滝で、平家方の山の手の陣所があったところである。敗戦後この付近にいた者は北の舟津に出て船に乗ることができず、この谷を南に山越えして、本拠地の屋島へ落ち延びたとされる。清滝の池が七つ南北に連なっているところを七ツ池といい、池の向かいに並んで見える明かりは、高速道路瀬戸中央道の灯火で、瀬戸大橋を渡って四国屋島へ通じており、夜に屋島へ落ち延びる平家の灯りを連想させる。

 

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