「別名で保存された無名の記憶」の評論 |
銀座ニコンサロン 2001年9月25日〜10月6日 |
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飯沢耕太郎 アサヒカメラ・2001年12月号 「写真展を歩く」 日常の光景の中から、「目的を持たない無名の記憶」を丹念に採集する試み。デジタル・イメージとして「保存」された過去が、意図的に並び変えられることで「新しい生きた記憶」としてよみがえってくる。デジタルプリント特有の醒めたブルーの調子が、画像の全体を薄い皮膜の覆っていて、見慣れた眺めを微妙に変質させている。 |
大西みつぐ ニッコールクラブ179 2002 EARLY SPRING 「ニコンサロンウォッチング」 |
■ パソコンで、画像やワープロ文書などを機器内臓のメモリーや外部の記録媒体にしまっておきたいという時、画面の項目をクリックすると、「保存」と「別名で保存」という選択肢が出てくる。ファイル名を変えなければそのまま上書きされ「保存」、別の名称にしてしまっておくのであれば「別名で保存」ということになる。私たちの日常はどちらだろうかということになるが、たとえば朝、通勤電車で会社に向かう場合、いつもの車両に乗り、いつものように吊革につかまり一方の片手でいつもの新聞を読むのであれば、新たなはずの1日の始まりであっても、行為や過程はそのまま上書きされなにごともなかったかのように出来事として保存されていく。多くの人々は同じような時間を費やし、似たような空間を行き来している。それこそが日常であるはずだ。しかし、人間の「記憶」は実際のところ複雑な回路を経由しながら、それではないこれ、昨日ではない今日の痕跡としてどこかに留まろうとしているのではないか。 ■ 山上高人さんの今回の作品(デジタル出力によるプリント60点)では、断片的な日常の風景の合間に繰り返し「無名の」人々が登場する。そのほとんどが老人だ。さらには若い女性や、ひょっとしたら息子さんかも知れない若者のポートレイトも出てくる。老人たちはかしこまったり、照れ笑いをしているが、後者はみんな無表情だ。コンパクトカメラで撮られたのだろう、それぞれ撮り方は案外そっけなく見える。そして会話の合間やちょっとした瞬間の刹那的なシャッターによる「現在」を、作者は「新しい生命をもつ現在」(写真展内容解説より)としてとらえようとしている。若々しい発想だ。 ■ 作者は人々との接触に積極的な意味を見出しながらも、しかし、そこでよくあるような人間賛歌を歌い上げたり、「明日への希望」という美しいファイル名をつけ、記憶として別名で保存しようというのではなく、我がままと言われようが、自己の存在証明であるかのように、たった今の現在を撮影し、新たなファイルにして収納し、パソコンを経由させたデジタルプリントとして、いつか眺めることにより、さらなる現在、いや未来へと向かいたいという決意をそこに覗かせているように思える。 ■ 「記憶」をめぐるささやかな検証作業というと、またプライベート写真かと少々辛気臭いものを感じてしまう人もいるだろうが、1枚のプリントが丹念に制作されていて、技術的な裏付けを十分に感じさせるものがあった。ただ、おとなしい額装でなく直貼りでもよかったし、もっと大量のイメージで会場空間を縦横無尽に被ってもよかったのではないかと思った。 |