「私の居場所」の評論 |
銀座ニコンサロン 1996年10月15日〜10月21日 |
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平木収 アサヒカメラ 1996年12月号 写真展評 |
自分の内側を見る写真 会場のコメントの文中には、自宅敷地内の仕事場と自宅の往復の日々を撮ったとしか記されていない。そして、毎日毎日、仕事が充満した日々が続くことは、作品からピンとくる。しかし、写真を撮っていたいのだそうである。仕事の傍ら、自身のほんの身の回りを撮る、撮って撮って撮りまくって、それで写真展までいったというのが、この写真展の由来だという。作風は異なるが、戦時中に故鈴木八郎翁が、自宅の庭だけを撮って、一つの作品にまとめた「我が庭を写す」のことを思い出した。共通項があるとすれば、それはよそではなく、自前の場が写っているということだろう。これはけっこう重みのあることだ。写真というのは撮りに行くことが多い。眼前に去来する世界を、フレームで切り取るのに、新鮮な視覚の方が、興が乗るというものである。だから自身の身辺というのは、つい忘れがちで、何かの発見がしたくて移動をする。その行為が意味のあることだというのは、写真が好きな人だけでなく、多くの人々が承知している。ところが、写真を自分の内側を見る装置にする人も多い。例えばシンディー・シャーマン。彼女は自らの心の奥底から意識下の世界までを覗き込もうとしている。それほど大袈裟ではないにしても、山上(田辺)高人作品も社会人としての自分、家庭人としての自分、そして何よりも写真を撮る人間としての自分の存在感を、ごく自然体で追っている。結果的には、他者が代役を務めることができない世界が描き出された。アマチュア作品でもプロ作品でもない、そんな区分の不要な世界が出現していた。じつに面白い。 |